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十三宝塚遺跡

(じゅうさんぽうづか いせき)

十三宝塚遺跡は、群馬県伊勢崎市境伊与久に所在する奈良時代から平安時代にかけての重要な遺跡です。古代寺院跡を中心とする遺跡として知られ、1988年(昭和63年)1月11日に国の史跡に指定されました。

遺跡は伊勢崎市の東部、赤城山の南麓から広がる台地の末端部に位置しています。この地域は古代から交通や文化の拠点として発展してきた場所であり、周辺には古墳群など数多くの遺跡が分布しています。十三宝塚遺跡は、その中でも特に規模が大きく、古代上野国の政治・宗教・生産活動を知るうえで極めて重要な遺跡として評価されています。

遺跡の中心には奈良時代に建立されたと考えられる寺院跡があり、仏殿や塔、回廊などの建物が整然と配置されていたことが発掘調査によって明らかになりました。また、仏像の破片や瓦、奈良三彩陶器など多くの貴重な遺物が発見されており、当時の仏教文化の広がりを示す重要な資料となっています。

遺跡の発見と発掘調査

十三宝塚遺跡は、1970年代に工業団地の建設計画が進められたことを契機に注目されました。1973年から1976年にかけて発掘調査が実施され、その結果、奈良時代から平安時代にかけての大規模な遺構群が確認されました。

この地域は伊勢崎市内でも特に遺跡が集中する地域であり、遺跡の北東約1.5キロメートルには下谷古墳群が存在しています。また遺跡の北側には、古代の主要幹線道路である東山道駅路が通っていたことが知られています。

発掘調査では、寺院跡を中心とする建物群のほか、住居跡、井戸、工房跡など多様な遺構が見つかりました。当初は佐位郡の役所である郡衙跡ではないかという説もありましたが、仏像や仏具など仏教関係の遺物が多く出土したことから、現在では寺院跡である可能性が高いと考えられています。

遺跡の規模と構造

遺跡の広さは南北約390メートル、東西は200メートル以上にも及びます。遺跡の西側と南側は幅約4.7メートル、深さ約2メートルの大きな溝によって区画されており、東側は自然の谷地形を利用した境界となっています。

北側には古代官道である東山道駅路が通っていましたが、後に道路のルートが変更されたことで、道路の側溝が灌漑用水路として利用されるようになりました。この水路は牛堀と呼ばれ、現在でも古代の土木技術を伝える貴重な遺構として知られています。

寺院の中心区域

遺跡の中央北寄りには、回廊状の遺構に囲まれた寺院の中心区域が存在します。この区域は不整形の四辺形で、東辺約90メートル、南辺約82メートル、西辺約85メートル、北辺約70メートルという規模を持っています。

回廊の中央には、東西20メートル、南北16メートルの基壇跡が確認されており、ここには桁行3間、梁間2間の建物が建っていたと推定されています。この建物は寺院の中心的な建物である金堂であったと考えられています。

また金堂跡の南西には一辺約12メートルの方形基壇があり、これは寺院の塔跡とみられています。回廊南辺には門跡も確認されており、主柱の前後に控柱が立つ四脚門の構造を持つ立派な門であったことがわかっています。

付属建物群

回廊の東側には多くの建物跡が集中しており、掘立柱建物跡が約30棟、竪穴建物跡が約50棟確認されています。これらの建物は規則的に配置され、三つのブロックに分かれていたことがわかっています。

これらの建物は僧侶の住居や寺院運営に関わる施設、あるいは工房などとして利用されていたと考えられています。このような整然とした配置は古代の官衙にも似ているため、かつては郡役所跡とする説も提唱されました。

出土した貴重な遺物

十三宝塚遺跡からは、古代の仏教文化や工芸技術を示す多くの遺物が出土しています。特に仏教関係の遺物が豊富であり、この遺跡が寺院であったことを裏付ける重要な証拠となっています。

仏教関連の遺物

出土した主な遺物には次のようなものがあります。

・如来の塑像の破片
・菩薩像の押出仏(銅板を型に当てて叩いて作る仏像)
・奈良三彩の火舎の獣脚
・三彩の鉢
・灰釉の浄瓶
・瓦塔

これらの遺物は奈良時代の高度な仏教文化を示すものであり、当時この地域が仏教信仰の重要な拠点であったことを物語っています。

国分寺との関係

遺跡から出土した瓦は、笠懸瓦窯群で生産されたもので、上野国分寺で使用された瓦と同じ型で作られていることがわかっています。このことから、寺院の創建は天平勝宝年間(749年〜757年頃)と考えられています。

この寺院は、上野国分寺の造営に関わった地方豪族である檜前氏の氏寺であった可能性が指摘されています。古代では国分寺の建設に郡司など地方豪族も深く関わっており、十三宝塚遺跡の寺院もその一環として建立されたと考えられています。

郷名を示す文字瓦

遺跡からは文字が刻まれた瓦も出土しており、古代の行政区画を知るうえで重要な資料となっています。瓦には次のような文字が確認されています。

佐・渕・反・雀

これらはそれぞれ古代上野国佐位郡の郷名を示すものであり、

佐位郷
渕名郷
反治郷
雀部郷

などの地名を表しています。このような郷名瓦は、古代の行政組織や地域社会の構造を知る上で非常に重要な資料です。

寺院と工房の存在

十三宝塚遺跡では、寺院だけでなくさまざまな生産活動が行われていたこともわかっています。発掘調査では金属加工や漆器製作に関係する遺物が多数出土しました。

例えば次のような遺物が確認されています。

・鉄滓(製鉄の際に出る不純物)
・羽口(炉に空気を送るための管)
・取鍋(溶けた金属を流し込む道具)
・坩堝(溶解容器)
・鋳型
・炉壁

これらの出土品から、遺跡内には鋳鉄や鋳銅を行う金属工房が存在していたことが明らかになっています。また漆が付着した土器も多く出土しており、漆器工房の存在も推定されています。

このように、十三宝塚遺跡は宗教施設である寺院だけでなく、古代の産業活動の拠点としても重要な役割を担っていたと考えられます。

古代上野国の歴史を伝える重要な遺跡

十三宝塚遺跡は、奈良時代から平安時代にかけての政治・宗教・産業の実態を伝える貴重な史跡です。寺院跡や多くの遺物、整然とした建物配置などは、古代地方社会の姿を具体的に示しています。

また、東山道という古代の幹線道路に近い立地や、国分寺と関係する瓦の出土などから、この地域が古代上野国において重要な拠点であったこともうかがえます。

現在、十三宝塚遺跡は国史跡として保存され、古代の歴史を学ぶ貴重な文化遺産となっています。伊勢崎市周辺には古墳や寺院跡など多くの史跡が残されており、十三宝塚遺跡はその中心的存在として、古代の上野地方の歴史を今に伝え続けています。

Information

名称
十三宝塚遺跡
(じゅうさんぽうづか いせき)

高崎・前橋

群馬県