赤城神社は、群馬県前橋市富士見町赤城山に鎮座する由緒ある神社です。式内社(名神大社)論社であり、上野国二宮論社としても知られています。旧社格は村社に列しており、その歴史と伝統は長いものです。
赤城神社は赤城山の頂にある大沼のほとりに位置しており、その美しい風景は訪れる人々を魅了します。正式名称は「赤城神社」ですが、他の赤城神社と区別するために「大洞赤城神社(だいどうあかぎじんじゃ)」とも呼ばれています。全国に約300社ある赤城神社の中でも、本宮と推測される社の一つとして、特に重要な位置を占めています。
赤城神社の祭神としては、赤城大明神、大国主命(おおくにぬしのみこと)、磐筒男神(いわつつのおのかみ)、磐筒女神(いわつつのめのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)などが祀られています。また、相殿には徳川家康公や大山昨神(おおやまくしのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)などが祀られています。
赤城神社の創建は明確にはわかっていませんが、社伝によると、豊城入彦命が上毛野(かみつけの)を支配する際に、山と沼の霊を祀ったことに由来するとされています。その後、允恭天皇や用明天皇の時代に社殿が創設されたと伝えられています。
当初、神社は神庫山(ほくらやま:現在の地蔵岳)の中腹に祀られていましたが、806年(大同元年)に大沼の南側の畔に移され、現在の大洞旧社地となりました。また、小沼のほとりには豊受神社が建てられました。この移転により、神社の周辺地域は「大洞(だいどう)」と呼ばれるようになり、通称として「大洞赤城神社」とも称されるようになりました。
古代より、赤城山の神々は山の神として、また沼神の赤沼大神として信仰されてきました。湖からは古代の祭祀に使用された鏡が発見されており、これが赤城神社が古くから重要な祭祀の場であったことを示しています。
『六国史』には「赤城神」に対する神階奉授の記録があり、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があります。このことから、赤城神社は古くから崇敬を集めてきたことがわかります。
また、赤城神社は山宮としても推定されており、神仏習合期において修験者たちの信仰の中心地としても重要な役割を果たしました。戦国時代には、南方氏によって里宮とされる二宮赤城神社が滅亡しましたが、赤城神社の山宮としての位置づけは継続されました。
赤城神社が歴史上に登場するのは江戸時代からです。1601年(慶長2年)、前橋城主・酒井重忠が赤城神社を篤く信仰し、歴代藩主もその例に倣いました。徳川家康が相殿に祀られたことで、将軍家や諸国の大名たちの信仰を集め、赤城神社はさらに重要視されるようになりました。
この時期、赤城神社は関東一円から多くの参拝者を集め、「赤城詣で」として賑わいを見せました。幕府の保護のもと、各地に分社が勧請され、赤城神社は広く信仰の対象となりました。
明治時代に入ると、廃仏毀釈により、赤城神社は仏教と分離されました。厳しい赤城山の気候の影響で荒廃した社殿の再建が計画されましたが、実現しませんでした。その後、1970年に小鳥ヶ島に社殿が移され、現在の形となりました。
2006年(平成18年)には、大洞御遷宮千二百年祭を機に社殿の大修復が行われ、現在の美しい姿が保たれています。
1970年に旧社地の大洞から現在の小鳥ヶ島に移されました。小鳥ヶ島には南北朝時代の経塚遺跡があり、1372年の銘を持つ法華経埋納の多宝塔や銅経筒の残欠、鏡が出土しています。これらは群馬県の重要文化財として指定され、保存されています。
旧社地には今も大洞の名残を感じさせる風景が広がり、神聖な雰囲気を醸し出しています。訪れる人々はここで古代から続く信仰の歴史に触れることができます。
赤城神社には、平安時代末から江戸時代に至るまでの歴史を物語る遺跡が多く残されています。これらの遺跡は、赤城神社が長い歴史の中で果たしてきた重要な役割を示しています。
赤城神社では、一年を通してさまざまな祭事が執り行われています。新年を祝う歳旦祭(1月1日)から、山開き祭・例大祭(5月8日)、湖水祭(8月8日)、秋祭(10月)まで、古くからの伝統を受け継いだ行事が続けられています。これらの祭事は、地域の人々や参拝者にとって大切な行事であり、神社の信仰を支えています。
赤城神社は群馬県前橋市富士見町赤城山4-2に所在しており、JR東日本両毛線「前橋駅」から関越交通バスでアクセスが可能です。最寄りのバス停「あかぎ広場前」で下車し、徒歩約5分の距離です。