赤城山にある神社で、赤城山の頂上にある大沼の東岸に突き出した半島(小鳥ヶ島)に鎮座しています。水神を祀る。
正式な名前は赤城神社ですが、他の赤城神社と区別するために「大洞(だいどう)赤城神社」とも呼ばれています。関東地方を中心に全国に約300社ある赤城神社の中で、本宮と考えられるものの一つです。
美しい朱塗りの建物が立つ赤城山の大沼湖畔に位置するこの神社は、群馬県でもトップクラスのパワースポットとして知られています。赤城山と湖の神「赤城大明神」に召されたとされる赤城姫の伝説から、この女神に祈ると女性の願いが必ず叶うとされ、特に女性に愛される場所です。
神社では古代から続く「納鏡」という神事が行われており、千面以上の銅鏡が奉納されています。夏と秋の例大祭では、さまざまな神事やイベントが開催され、アマチュアカメラマンたちにも人気です。湧き上がる霧に包まれて、湖上に浮かぶように見える神社の様子は、幻想的で、季節や時間によって異なる風景を楽しませてくれます。このエリアを訪れた際には、ぜひ立ち寄ってみる価値があります。
歴史
創建
創建の時期ははっきりしていませんが、神社の伝承によれば、豊城入彦命が上毛野を支配する際に山と沼の霊を祀ったとされています。その後、允恭天皇や用明天皇の時代に社殿が設けられたと伝えられています。
創建当初は神庫山(ほくらやま、後の地蔵岳)の中腹に祀られていましたが、806年(大同元年)に大沼の南畔(現在の大洞旧社地)に遷座されました。この際、小沼の畔には小沼宮(のぐう、後の豊受神社)が建てられました。この時期に山の名前が「大洞」となり、通称として「大洞赤城神社」とも呼ばれるようになりました。ただし、「大洞」は「大堂」とも書かれ、山頂に堂があったとも言われています。
赤城山の赤城大明神と沼の赤沼大神として古代から祀られ、湖からは祭祀に使われた古い鏡が見つかっています。
平安時代から戦国時代
平安時代から戦国時代にかけて、六国史には「赤城神」への神階奉授の記録があり、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」の記載があります。この時代には、赤城神社の山宮が神仏習合の時期に修験者たちの信仰の中心地として展開していきました。
また、南北朝時代の『神道集』には、赤城神社の赤城大明神に関する説話が掲載されており、大沼と小沼に祠を祀る記述があります。この記録が赤城神社の所在地を特定する最古の史料とされています。
江戸時代
大洞赤城神社は江戸時代に歴史の舞台に登場します。1601年(慶長2年)、厩橋(前橋)城主として入封した酒井重忠が、鬼門にあたる大洞赤城神社を熱心に信仰し、その後の藩主たちもその例に倣いました。酒井重忠は「正一位赤城大明神・赤城神社」の改築を幕府に申し出、その工事を完成させたと伝えられています。その後の藩主酒井忠世は、徳川家康を相殿に祀りました。また、酒井家によって寿延寺が別当とされました。
1641年(寛永18年)、社殿が雷により全焼したため、酒井忠世によって新しく建てられました。元々の山岳信仰と東照大権現(徳川家康)の合祀により、幕府将軍家や各地の大名たちの信仰の対象となりました。山開き祭りである「卯月八日」には、「赤城詣で」として関東一帯から多くの参拝者が訪れ、賑わいました。この時期、幕府の保護の下で分社が各地に勧請されました。
寛政年間には、三夜沢赤城神社との間で「本社」「本宮」という文言を巡る論争が起きました。1798年(寛政10年)、吉田家が三夜沢赤城神社に正一位を与えていた際に、大洞赤城神社にも同じ位を求める要求がありました。しかし、吉田家はこれに反対し、三夜沢側も同様に拒否しました。しかし翌年、吉田家と対立していた白川伯王家が、大洞赤城神社に「上野国総社大洞赤城神社」と記載された額面を奉納しました。この額面は、毎年前橋で行われる千住観音御開帳の際に展示されることとなりました。三夜沢側はこれに反発し、1800年(寛政12年)に大洞赤城神社別当の寿延寺と白川伯王家に対して訴訟を起こしました。川越藩主松平氏が仲裁に入り、額面は封印されたまま、大洞の例年の御開帳は予定通り行われました。しかし、論争は終息せず、1802年(享和2年)には三夜沢側が幕府の寺社奉行に訴え出て、国許での解決を求めました。最終的には1816年(文化13年)になって、両者の合議で内陣に額面を納め、文言の使用を決める和解が成立しました。
明治以降
明治時代の廃仏毀釈の影響で、寿延寺との関係が絶たれ、地元で廃仏毀釈運動を推進した人々から新たな神官が任命されました。さらに、赤城山の厳しい気候の影響で社殿が荒廃し、その改築が計画されましたが、実現しなかった時期もありました。明治20年から43年にかけて、小沼の豊受神社、小鳥ヶ島の厳島神社、黒檜山頂の高於神社など、赤城山内の複数の神社が合祀されました。
また、近代社格制度においては郷社に指定されました。三夜沢・大洞・二宮の三社を結合して国幣中社に昇格させようとする動きもありましたが、終戦により実現しませんでした。
1970年(昭和45年)、現在の小鳥ヶ島(厳島神社跡地)に遷座し、新しい社殿が再建されました。この際には、小鳥ヶ島の環境保護の観点から反対運動も起きました。
2006年(平成18年)、大洞御遷宮千二百年祭を機に大規模な修復工事が行われました。
境内
社地は1970年に、以前の大洞から移されました。現在の社殿はその際に再建されました。
小鳥ヶ島には、「小鳥が島遺跡」として南北朝時代の経塚遺跡が存在します。1372年に埋納された法華経を示す応安5年の銘が付いた多宝塔の下から、銅製の経筒の破片と鏡10面が発見されました。これらの出土品は神仏習合の信仰を象徴するものとして、宝塔や経筒の遺物と共に群馬県の文化財に指定されています。
9:30~16:30
JR前橋駅より関越交通バスにて、富士見温泉経由、約1時間10分
土日祝日、直通バスが運行されます
車:関越自動車道 赤城ICより国道353号、県道4号経由約1時間