高崎城は、群馬県高崎市にかつて存在した日本の城で、旧名を「和田城」といいます。上野国群馬郡高松町に築かれた平山城で、江戸時代には高崎藩の藩庁として機能しました。現在は城郭の大部分が市街地となっていますが、一部の遺構や建造物が残り、高崎市の史跡や県・市指定の重要文化財として大切に保存されています。
高崎城は、慶長3年(1598年)、徳川家康の命を受けた箕輪城主・井伊直政によって築かれました。直政は交通の要衝であるこの地に近世城郭を整備し、城下町の基盤を築きました。中山道と三国街道の分岐点にあたる高崎は、江戸防衛の観点からも重要な拠点であり、その監視と統治を目的として城が構えられたのです。
直政は入城に際し、この地を「高崎」と命名しました。これは、箕輪城下にあった恵徳寺の僧・龍山詠潭和尚の「松は枯れることがあっても、高さには限りがない」という言葉に由来すると伝えられています。
高崎城は烏川を背にして築かれた輪郭梯郭複合式の平城で、郭内だけでも5万坪を超える広さを誇りました。本丸には御三階櫓(天守に代わる三層の櫓)があり、その周囲には乾・艮・巽・坤の四隅に櫓が配置されていました。
石垣はほとんど用いられず、土塁と水堀によって防御を固める構造が特徴です。城内には16の門があったとされ、現在は東門が移築復元され、市の重要文化財に指定されています。また、県内に現存する唯一の城郭建築である乾櫓も見どころの一つです。
この地にはもともと、平安時代末期に和田義信が築いたとされる和田城がありました。戦国時代には上杉氏や武田氏、北条氏の勢力争いの中に置かれ、天正18年(1590年)の小田原征伐により落城し廃城となりました。その後、徳川家康の関東入部を機に、新たに高崎城として再整備されました。
江戸時代には譜代大名が次々と城主を務め、特に松平(大河内)家は約150年にわたり高崎を治めました。寛永10年(1633年)には徳川家光の弟・徳川忠長が幽閉され、この城で自刃するという歴史的出来事もありました。
明治6年(1873年)の廃城令により、高崎城は廃城となりました。建造物の多くは取り壊され、跡地は軍用地などに転用されました。しかし、乾櫓や東門は農家に払い下げられた後、昭和期に移築復元され、現在は往時の姿を今に伝えています。
現在、城跡周辺は高崎城址公園として整備され、市民の憩いの場となっています。約4.9ヘクタールの敷地にはお堀や土塁が残り、当時の城郭の雰囲気を感じることができます。
特に春は、お堀沿いに植えられた約300本のソメイヨシノが咲き誇り、乾櫓と桜の風景は高崎を代表する景観の一つです。夜にはライトアップも行われ、幻想的な夜桜を楽しむことができます。秋には紅葉も美しく、四季折々の自然と歴史が調和した散策スポットとなっています。
大阪城や姫路城のような壮大な天守閣は高崎城には存在しませんでした。これは、築城当時すでに天下統一が進み、城の役割が「戦のため」から「統治のため」へと変化していたためです。その代わりに御三階櫓が設けられ、行政と防御の象徴として機能していました。
高崎城址は現在の高崎市役所周辺に位置しています。JR高崎駅から徒歩約15分、バスで約5分とアクセスも良好です。車の場合は関越自動車道高崎ICから約15分ほどで到着します。
高崎城は、近世城郭としての機能と城下町形成の歴史を物語る貴重な史跡です。現存する乾櫓や東門、そしてお堀や土塁からは、約400年前の面影を感じることができます。春の桜や静かな水堀の風景を楽しみながら、高崎の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。