群馬県高崎市にあった城
高崎城は、群馬県高崎市に位置する日本の城で、かつては上野国群馬郡高松町に存在しました。この城は平山城であり、旧名を「和田城(わだじょう)」と呼ばれていました。江戸時代には高崎藩の藩庁として機能し、現在その城跡の一部は高崎市の史跡に指定されています。さらに、現存する建造物や関係史料の一部は県または市の重要文化財に指定されています。
高崎城は烏川に沿って築かれた輪郭梯郭複合式の平城です。本丸には御三階櫓(天守)と乾櫓(いぬい/北西)、艮櫓(うしとら/北東)、巽櫓(たつみ/南東)、坤櫓(ひつじさる/南西)の四隅櫓が設けられていましたが、現存するのは乾櫓のみで、群馬県の重要文化財に指定されています。
本丸を囲むように、西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋が配置され、二の丸、三の丸が梯郭式で構えられていました。城の周りは土塁で囲まれ、石塁はほとんど造られなかったとされています。かつて城内には本丸門を含む16の門がありましたが、通用門として使われていた東門(市の重要文化財)のみが移築復元され現存しています。また、三の丸土塁と水堀は現在も町並みにその痕跡を残しており、当時の風景を今に伝えています。
現在、高崎城の跡地は市街地として再開発され、超高層21階建ての市役所や音楽センターなどの公共施設が立ち並んでいます。お堀の周辺は高崎城址公園として約4.9ヘクタールが整備され、春には約300本のソメイヨシノやツツジが満開となります。城を囲む土塁の上は遊歩道として利用され、市民の憩いの場となっています。
高崎城の地には、古くは「和田城」と呼ばれる城がありました。和田城の創建は平安時代末期に遡り、この地を治めていた豪族和田義信が築城したと言われています。室町時代に入り、関東管領の支配下に置かれると、和田氏は上杉氏に従属しました。しかし、永禄4年(1561年)には城主の和田業繁が上杉謙信に反旗を翻し、武田信玄に味方しました。その結果、和田城は上杉勢の度重なる攻撃に耐えました。
その後、和田業繁の子である和田信業は北条氏に属しましたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には小田原城に籠城しました。留守を預かっていた信繁の子・和田兼業は、前田利家や上杉景勝などの連合軍に包囲され、4月19日(新暦5月22日)に和田城は落城し、廃城となりました。
小田原征伐後、関東地方には徳川家康が入部し、箕輪城主の井伊直政は家康の命により慶長2年(1597年)に和田城跡に近世城郭を築きました。この地は中山道と三国街道の分岐点であり、交通の要衝であったため、その監視を行うために城が必要とされたのです。
慶長3年(1598年)、井伊直政は箕輪城から新たに築城された高崎城に移りました。このとき、直政はこの地を「高崎」と命名しました。これは、箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の開山龍山詠潭和尚の「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」との進言に基づいて名付けられたと伝えられています。箕輪から町家や社寺が移され、新たな城下町が築かれました。
その後、関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)の後、直政は近江国佐和山城に移封されましたが、高崎城は諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平氏などが城主として交代で入城しました。最終的に、明治維新を迎えるまで松平(長沢・大河内)氏が城主を務めました。
元和5年(1619年)に入城した安藤重信は、高崎城の大規模な改修を行い、約3代にわたる77年間の改修を経て、近世城郭としての姿が整えられました。寛永10年(1633年)には、3代将軍徳川家光の命により、徳川忠長が当城に幽閉され、自裁するという悲劇が起こりました。
明治6年(1873年)、廃城令により高崎城は存城とされ、その後第3師官官内分営所が設置されました。城内の建造物は次第に移築されるか破却され、大部分が失われましたが、跡地は歩兵第15連隊の駐屯地として利用されました。
高崎城の遺構としては、堀と土塁がほぼ残っています。また、高崎市立中央図書館の正面玄関付近には、調査の際に発見された石垣水路と石樋の一部が移築再現されています。
1974年(昭和49年)、乾櫓が市内の農家に払い下げられ納屋として利用されていましたが、群馬県指定重要文化財となったのを機に、三の丸模擬石垣上に移築復元されました。また、東門も同じく農家に払い下げられていたものが1980年(昭和55年)に乾櫓近くに移築復元されています。さらに、市内の長松寺には、徳川忠長が自刃したという書院が移築され、庫裡として現存しています。