赤城神社と二宮の伝説
二宮赤城神社が二宮と称した背景には伝説があります。赤城の神が絹機を織る際に必要な「くだ」が不足したため、技術に長けた貫前神社の神から借りて織りあげました。この優れた技術をもつ神を他国に移してしまわぬよう、赤城神社は一宮の地位を譲り、二宮となったと伝えられています。
祭神
主祭神は以下の通りです。
- 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
- 大己貴尊(おおなむちのみこと) - 大国主命の別名
- その他数柱
歴史と沿革
創建と古代
赤城山麓には、豊城入彦命を祖とする上毛野氏が存在したと伝えられ、二宮赤城神社の創建にも関係したと考えられています。六国史には赤城神への神階奉授の記録があり、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「上野国勢多郡 赤城神社」と記載されていることから、当社の古さがうかがえます。論社としては、赤城山麓の二宮赤城神社のほか、山腹の三夜沢赤城神社や山頂の大洞赤城神社が挙げられています。
戦国時代
戦国時代末期には北条氏直により荒廃しましたが、大胡城に入った牧野氏によって社殿が整備されました。この時代、赤城神社は地域の信仰の中心としての地位を維持していたと考えられます。
江戸時代の社殿整備
江戸時代には、赤城神社は前橋藩や大胡藩などの保護を受け、社殿の改築が行われました。特に大洞赤城神社は厩橋城(前橋城)の鬼門を鎮める神として信仰を集め、1601年(慶長2年)酒井重忠により社殿が改築されました。1642年(寛永19年)には火災で焼失した社殿が藩主・酒井忠清により再建され、歴代藩主も例大祭に参列していました。
明治以降の変化
明治時代の近代社格制度において、二宮赤城神社は郷社に列しました。廃仏毀釈の影響で仏教色は排除され、三夜沢赤城神社との統合や国幣社昇格の動きもありましたが、第二次世界大戦の影響で実現はしませんでした。戦後も社殿の改修や神事の復興が行われ、地域の信仰の中心として機能しています。
赤城信仰の位置づけ
二宮赤城神社は、赤城山麓に位置し、東北方には大室古墳群などの遺跡が残る地域にあります。これは赤城神と深い関係を持つ上毛野氏の中心地であったと考えられます。また、数多い赤城神社の中で唯一「二宮」を称する点も特徴であり、鎌倉時代には里宮として赤城信仰の中心を担っていたと推測されます。
現在でも山腹の三夜沢赤城神社との関係は深く、4月と11月には両社間で神輿の渡御が行われます。三夜沢にある古代祭祀遺跡「櫃石」は二宮赤城神社の真北に位置しており、祭祀上の関連が指摘されています。また、境内には堀と土塁がめぐらされ、中世における社地の形態を伝える環濠遺構として、1984年(昭和59年)に市の史跡に指定されています。
境内の見どころ
- 本殿・拝殿・神楽殿:伝統的な建築様式で造られ、神事や祭礼が行われる中心施設
- 宝塔(市指定重要文化財):鎌倉時代の南北朝期に造られ、赤城山麓に広く分布する「赤城塔」の一つ
- 随神門・鐘楼:鐘楼の梵鐘は1623年の銘があり、御神幸の時のみ撞かれる
- 塔跡の心礎:鎌倉時代の塔跡と推定される歴史遺構
祭事と文化財
祭事
- 御神幸(4月・12月初辰の日) - 三夜沢赤城神社まで神体が遷幸。前橋市重要無形民俗文化財指定
- 御神事(3月・11月最終午の日)
- 例大祭(4月15日)
文化財
- 群馬県指定文化財:納曽利面(1453年に作られた舞楽面)
- 前橋市指定文化財:
- 梵鐘(1623年)
- 絵馬(前橋藩主・酒井雅楽頭と大胡藩主・牧野忠成による奉納)
- 宝塔(南北朝時代)
- 重要無形民俗文化財:
- 二宮赤城神社の御神幸(平成5年指定)
- 二宮赤城神社太々神楽(平成21年指定)
- 二之宮の式三番叟(昭和45年指定)
二宮赤城神社太々神楽
二宮赤城神社に伝わる太々神楽は、元禄末期から宝永年間(1704年頃)に始まったとされ、現在も地域の文化・歴史を伝える重要な行事です。本座15座、裏座9座の合計24座からなり、歌舞伎の影響を受けた優美な舞や演劇的な舞が組み込まれています。地域の子どもたちによる「子供神楽」練習も行われ、地域文化の振興にも寄与しています。毎年元旦と4月15日の大祭に奉納されます。
アクセスと現地情報
所在地:群馬県前橋市二之宮町886
交通アクセス:JR前橋駅(両毛線)よりバスで「二之宮町神社裏」下車、徒歩約7分。