霧積温泉は、群馬県安中市松井田町坂本、碓氷峠の奥深い山中に湧く温泉です。群馬県と長野県の県境近く、霧積川の水源付近、標高の高い静寂な地にひっそりと佇んでいます。かつては「荒治療の草津、仕上げの霧積」と称され、草津温泉で強い湯にかかった後、霧積のやわらかな湯で体を整えるという湯治文化がありました。
現在は一軒宿の金湯館(きんとうかん)のみが営業しており、昔ながらの秘湯の趣を色濃く残しています。
霧積温泉は、かつて「犬の湯」あるいは「入りの湯」と呼ばれていました。伝説によれば、傷を負った猟犬が山中の水たまりで傷口を癒しているのを猟師が見つけ、そこが温泉であることを知ったといいます。このことから「犬の湯」と呼ばれるようになり、やがて湯治場として人々が“入り”に来る湯という意味で「入りの湯」となりました。
その後、山間に霧が立ちこめる日が多いことから「霧積」という名が付けられ、現在の名称となりました。霧に包まれる山の風景は幻想的で、訪れる人に深い印象を与えます。
また、源頼光の四天王の一人とされる碓氷貞光にまつわる伝承も残り、歴史と伝説が交差する温泉地として語り継がれています。
霧積温泉の泉質は、カルシウム―硫酸塩泉およびナトリウム―硫酸塩・塩化物泉です。源泉温度は約38.9℃、pH7.6の弱アルカリ性で、無色透明のやわらかな湯が特徴です。肌ざわりが良く、長湯しても疲れにくい穏やかな泉質は、古くから湯治場として親しまれてきました。
現在の源泉は掘削自噴によるもので、安定した湯量を保っています。山中の静けさの中で浸かる湯は格別で、日常の喧騒を忘れさせてくれます。
霧積温泉の歴史は古く、発見は1200年代にまで遡るとも伝えられています。江戸時代には碓氷関所の要害に位置していたため、往来や入湯には厳しい制限が設けられていました。記録によれば、地元安中藩領内の人々が主に湯治に訪れていたとされています。
明治時代に入ると、軽井沢が避暑地として発展する以前から、この地には別荘が建てられ、温泉旅館も営業を始めました。最盛期には旅館4軒、別荘20~30軒が立ち並び、共同浴場「六角湯」も存在していました。与謝野晶子が詠んだ「六方のまど霧にふさがる」という歌は、この地の情景を今に伝えています。
しかし、1896年(明治29年)と1910年(明治43年)に発生した山津波により、温泉街と別荘地は壊滅的な被害を受けました。多くの建物が流され、尊い命も失われました。その中で金湯館のみが被害を免れ、営業を続けることができました。こうして霧積温泉は、華やかな避暑地から山奥の秘湯へと姿を変えていったのです。
霧積温泉は、多くの政治家や文化人にも愛されてきました。伊藤博文、勝海舟、尾崎行雄、西郷従道、岡倉天心、西條八十、与謝野鉄幹・晶子夫妻、幸田露伴らが訪れたと伝えられています。
伊藤博文が明治憲法草案を起草したとされる部屋は、現在も金湯館の一部として残されています。また、西條八十の詩「帽子」の舞台ともなり、この詩をモチーフにした森村誠一の小説『人間の証明』にも登場するなど、文学の舞台としても知られています。
館内や周辺には、勝海舟の碑や川田順の詩碑などがあり、温泉とともに歴史や文学に触れることができます。
温泉入口付近には、霧積川をせき止めて造られた霧積湖があります。昭和43年から8年の歳月をかけて完成したこのダムは、治水を目的としながらも、美しい湖畔風景を生み出し、観光スポットとして親しまれています。
四季折々の自然が楽しめ、春の新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の静寂と、訪れるたびに異なる表情を見せてくれます。
信越本線横川駅からタクシーで約30分です。横川駅から宿の送迎もあります(宿泊者対象)。
上信越自動車道・松井田妙義ICより約35分。旧きりづみ館跡の駐車場からは「ホイホイ坂」と呼ばれる山道を約30分歩くか、宿の送迎を利用します。なお、日帰り入浴の場合は送迎は利用できません。
華やかな温泉街や大型施設はありませんが、それこそが霧積温泉の魅力です。山の静けさ、歴史の重み、伝説の息づかいを感じながら湯に身を委ねる時間は、まさに贅沢そのものです。
安中市を訪れる際には、ぜひこの山深い秘湯に足を運び、悠久の歴史と自然に包まれるひとときをお楽しみください。