富岡製糸場は、群馬県富岡市に設立された日本初の本格的な機械製糸工場であり、1872年(明治5年)に開業しました。当時の繰糸所や繭倉庫などが現在も残っており、日本の近代化や絹産業の技術革新に大きく貢献した場所です。富岡製糸場は、2014年(平成26年)に「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、世界遺産に登録されました。
富岡製糸場は設立以来、いくつかの名称変更を経ています。1872年の設立当初は「富岡製糸場」と呼ばれていましたが、1876年には「富岡製糸所」に、1902年には「原富岡製糸所」に、そして1938年には「株式会社富岡製糸所」へと名称が変わりました。1939年からは「片倉富岡製糸所」、さらに1946年には「片倉工業株式会社富岡工場」として運営されました。現在、国の史跡および重要文化財としての正式な名称は「旧富岡製糸場」、世界遺産登録時の名称は「富岡製糸場」となっています。
幕末の日本において、生糸は主要な輸出品でした。しかし、粗製濫造が横行し、その品質が低下したことで、国際的な評価を落としていました。こうした状況を改善するため、官営の機械製糸工場の建設が計画されることとなりました。富岡製糸場は、フランスの技術を取り入れ、当時世界最大級の規模を誇る工場として設立されました。
富岡製糸場の設立は、単に粗製濫造の問題を解決するだけでなく、日本製の生糸の品質を向上させるためのものでした。特に、日本の気候に適した機械を導入することで、他の製糸工場にもその技術が広まりました。そこで働いていた工女たちは、全国各地でその技術を伝え、絹産業の発展に貢献しました。
日本が開国した後、生糸や蚕種、茶などの輸出が急速に伸びました。特に生糸は、フランスやイタリアでの蚕の病気の大流行や清の生糸輸出の停滞などにより、需要が急増しました。しかし、その結果、粗製濫造が問題となり、日本の生糸の国際的な評価が低下していきました。
明治政府は、生糸の品質向上のために、外国商人からの要望もあり、官営の器械製糸工場建設を決定しました。この工場は、従来の座繰り製糸では達成できなかった糸の太さの均一化を目指し、日本製の生糸を経糸としても利用できるようにすることを目的としていました。また、器械製糸技術の導入も奨励され、前橋藩では初の器械製糸工場が設立されましたが、規模は小規模なものでした。
大隈重信や伊藤博文、渋沢栄一らの協力のもと、フランスから技術者ポール・ブリューナが招聘されました。ブリューナは、日本の気候や風土に適した機械の導入を提案し、その詳細な計画書を明治政府に提出しました。彼の提案に基づき、1870年に富岡製糸場の建設が正式に決定されました。
ブリューナは、富岡の地が養蚕業に適していることや、製糸に必要な資源の確保が容易であることから、富岡を建設地に選定しました。設計は、横須賀製鉄所のお雇い外国人であったエドモン・オーギュスト・バスチャンが担当し、木骨レンガ造りの設計を短期間で完成させました。
資材調達は尾高惇忠が担当し、周辺地域から石材、木材、レンガ、漆喰を調達しました。特にレンガは当時一般的な建材ではなかったため、地元での生産が行われました。また、政府は工女の募集にも力を入れましたが、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」といった根拠のない噂が広まり、募集は難航しました。しかし、政府はこれを打ち消し、富岡製糸場での技術習得の意義を強調することで、工女の確保に努めました。
1872年に富岡製糸場は正式に開業し、フランスから導入された機械と技術を駆使して、生糸の生産が開始されました。富岡製糸場で培われた技術は全国に広まり、日本の絹産業の発展に大きな影響を与えました。
富岡製糸場は、1893年に三井家に払い下げられ、その後もいくつかの経営母体の変更を経ながらも、一貫して製糸工場としての役割を果たしてきました。1939年には片倉製糸紡績会社に引き継がれ、1987年まで操業が続けられました。
第二次世界大戦中、富岡製糸場はアメリカ軍の空襲を免れ、戦後も片倉工業がその保存に尽力しました。2005年には敷地全体が国の史跡に指定され、2006年には初期の主要建造物が重要文化財に指定されました。そして、2014年6月21日、富岡製糸場は「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、正式に世界遺産に登録されました。