1958(昭和33)年の発売開始以来、「安全・安心」をモットーに変わらぬ味を守り続ける「峠の釜めし」。利尻昆布を使用ししょうゆベースで炊き上げたコシヒカリと、山里の幸を使用した9種類の具材で豊かな味わいを楽しめる。
「益子焼の土釜」に特徴がある駅弁で、「日本随一の人気駅弁」と評価されることもありました。2023年6月現在、累計販売数は1億8000万個を超えています。
釜
この駅弁は、直径140mm、高さ85mm、重量725gの益子焼の土釜に入った、薄い醤油味の出汁で炊き込まれたご飯が特徴です。製造は栃木県芳賀郡益子町の窯元つかもとで行われており、釜の上薬には「横川駅」「おぎのや」という文字が刻まれています。5mmほどの素焼きの蓋が付いた釜の上には包装紙が被せられ、割り箸と一緒に紐でくくられています。
この釜を持ち帰ると、家庭でも1合のご飯を炊くことが可能であり、おぎのやの公式サイトでも炊き方が紹介されています。
使い終わった容器(釜)は、不要な場合はおぎのやの店舗に持ち込むことで回収が行われます。一部店舗では空容器の回収ボックスも設置されており、一部の容器は洗浄後に再利用されるか、リサイクルが進められています。
また、近年は一部店舗でエコ容器(パルプモールド容器)を使った商品も販売されています。
具
具材は鶏肉、ささがき牛蒡、椎茸、筍、ウズラの卵、グリーンピース、紅しょうが、栗、杏となっており、釜飯と一緒にプラスチック容器入りの香の物も付いています。
歴史
1885年に荻野屋が設立され、信越本線の高崎駅から横川駅までの部分開業時に初めて駅弁を提供しました。最初の駅弁は、おにぎり2個と沢庵漬けがセットになったもので、価格は1包み5銭でした。
「峠の釜めし」の誕生
戦後、旅行者の数が増えていきましたが、当時の駅弁はどこも似た内容だったため、人気が低迷していました。荻野屋も例外ではなく、全列車が碓氷峠を通過する際に長時間停車する横川駅に立地していながら業績が低迷していました。そこで、当時の4代目社長である高見澤みねじは列車に乗り込み、旅行者の駅弁に対する意見を直接聞くことを決意しました。多くの意見が「暖かくて家庭的で楽しい弁当」という内容でした。
高見澤と後に副社長となる田中トモミは、これらの意見を元に駅弁の改良を考えました。そして、緑茶の土瓶に着目しました。当時の駅で販売されていた緑茶の土瓶は陶器製で、保温性があり匂いも移らないため、要望に合致していました。
また、「中仙道を越える防人が土器で飯を炊いた」という内容の和歌にインスパイアを受け、益子焼の職人と協力して一人前用の釜を作成しました。
1958年2月1日に、「峠の釜めし」として販売を開始しました。この温かい駅弁は当時として画期的であり、『文藝春秋』のコラムでも取り上げられたことから人気を集め、1967年にはテレビドラマ『釜めし夫婦』のモデルにもなりました。その後、この駅弁は荻野屋の隆盛への道を切り拓く重要なきっかけとなりました。
鉄道以外での販売展開
モータリゼーションの進展に伴い、各地の駅弁業者は苦戦を強いられましたが、荻野屋は1962年に逆にこの状況を活かし、国道18号沿いに「峠の釜めしおぎのやドライブイン横川店」を開業しました。これにより、鉄道への依存を減らし、現在の販売戦略の基盤を築きました。
1987年には、1日平均で1万個以上の販売実績があり、最高で2万5千個の売り上げも記録されました。このうち、駅弁の販売比率は約40%で、列車での売り上げも多く、3分間の停車中に410個の駅弁が完売したこともありました。
販売店舗
2022年時点での購入可能な店舗は以下の通りです。
直営店・関連グループ会社店舗
横川サービスエリア店
駅
車内販売
その他
さらに、百貨店やスーパーマーケットの「駅弁フェア」などのイベントでも定番商品として展示され、日本全国で出荷されています。また、JR東日本鉄道駅構内でもスポット販売が行われており、広く愛されています。