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新田金山城

(にった かなやまじょう)

新田金山城は、群馬県太田市の中心部に位置する標高235.8メートルの金山に築かれた、日本の山城です。この城は別名「金山城」や「太田金山城」とも呼ばれています。現在は城跡として残されており、その歴史と遺構が太田市の象徴的な存在として受け継がれています。

城の概要と立地

戦国時代の特徴を残す山城

新田金山城は、群馬県金山の頂上に位置し、周囲をアカマツに覆われた美しい景観を持つ山城です。城の中心部である本丸跡には、新田神社が建てられており、その背後の斜面には石垣が一部残存しています。これにより、かつての城の姿を今に伝えています。西方に広がる「日ノ池」や「月ノ池」からは関東平野を一望でき、風光明媚な景色を楽しむことができます。

また、城の西南部には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪(くるわ)が残されており、それらの曲輪をつなぐ尾根には堀切が設けられています。南曲輪には、中島飛行機の創設者である中島知久平の胸像が建てられ、歴史的な意義を象徴しています。大手門はかつて櫓門として機能しており、物見櫓や柵などの木造復元計画が検討されましたが、予算の制約により実現には至っていません。

石垣とその技術

新田金山城は、戦国時代の関東地方における山城の中でも、石垣が多用された特異な城です。発掘調査により、大手虎口(おおてこぐち)の東端土塁において、石垣の改修が計5回行われた痕跡が確認されました。特に「アゴ止め石」と呼ばれる技法が用いられており、これは石垣の基底部の石を前方に出して据えることで、石垣が沈み込んで前へ傾くのを防ぐ役割を果たしていました。この技法の使用は、石垣技術の進展を示唆していますが、出土物が少ないため、正確な時代の特定には至っていません。

歴史と沿革

室町時代以前

新田金山城の歴史は、1336年(建武3年)にさかのぼります。当時、佐野義綱が新田庄の新田城を攻め落とした記録があり、この新田城が金山に築かれていたのではないかという説があります。しかし、最近の発掘調査では、当時の遺構や遺物は検出されておらず、正確な証拠は見つかっていません。

室町時代・安土桃山時代

1469年(応仁3年)、金山築城の地鎮祭が行われ、その後、新田一族の岩松家純が金山城に入城しました。1528年(享禄元年)には、横瀬泰繁・成繁親子が城主の岩松昌純を殺害し、城の実権を握りました。その後、1574年(天正2年)には、由良成繁が上杉謙信の軍と金山城で戦うなど、戦国時代の激しい争いが繰り広げられました。

1584年(天正12年)、由良国繁・長尾顕長兄弟は、北条氏に従わないことを理由に金山城に籠城しましたが、翌年春には開城し、後北条氏に降伏しました。その後、1585年(天正13年)に由良国繁は桐生城に退き、1587年(天正15年)には、後北条氏が金山城の普請を完了させました。しかし、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の小田原征伐に際して、金山城は前田利家らによって接収され、廃城となりました。

江戸時代

1613年(慶長18年)、徳川家康は遠祖とされる新田義重の供養のため、金山南麓に大光院を建立しました。また、1629年(寛永6年)には、館林藩主榊原忠次が金山の松茸を江戸幕府に献上し、この慣例は1867年(慶応3年)まで続きました。1688年(元禄元年)には金山が幕府直轄林となり、1701年(元禄14年)には金山城の遺構が詳細に描かれた「元禄太田金山絵図」が作成されました。

近現代

1934年(昭和9年)、金山城跡は「金山城跡」として国の史跡に指定されました。現在では、遺構をもとに整備された公園として一般に公開されており、太田市の歴史的な観光地として親しまれています。2006年(平成18年)には、日本100名城の一つとして選定され、2009年(平成21年)には、史跡金山城跡ガイダンス施設・太田市金山地域交流センターが開館し、金山城の歴史を広く伝える拠点となっています。

現地情報

所在地とアクセス

新田金山城の所在地は群馬県太田市金山町40-98・長手町・東金井町です。東武伊勢崎線太田駅北口から史跡金山城跡ガイダンス施設まで徒歩約50分、約2.8Kmの距離にあり、タクシーを利用すれば約7分で到着します。

Information

名称
新田金山城
(にった かなやまじょう)

館林・太田

群馬県