大光院は、群馬県太田市金山町に位置する浄土宗の寺院です。山号は「義重山」、正式名称は「義重山 大光院 新田寺」とされています。通称として「子育て呑龍(こそだてどんりゅう)」や「呑龍様(どんりゅうさま)」として広く知られており、東上州三十三観音特別札所や群馬七福神の弁財天を擁する特別な寺院です。
大光院は、群馬県太田市にある寺院で、浄土宗に属しています。この寺院の吉祥門は市指定の有形文化財に指定されており、かつて中島飛行機で開発された一〇〇式重爆撃機の愛称「呑龍」は、この寺院の通称に由来します。
大光院は、慶長16年(1611年)3月、徳川家康が徳川一族の繁栄と天下泰平、さらにご先祖である新田義重の追善供養を目的として建立を計画しました。家康はこの計画を芝増上寺の観智国師に相談し、菩提寺の建立地として太田金山南麓が選ばれました。そして、観智国師の門弟で四哲の一人といわれる呑龍上人が招聘され、寺院の創建が実現しました。境内の裏には、新田義重や呑龍上人の墓があります。
義重は九条兼実に従い、法然上人に帰依し、建久6年(1195年)3月に寺尾城内に大光院を建立しました。時を経て、家康は観智国師や土井利勝、成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石をこの地に移しました。明治時代には、浄土宗管長として近代的教団の形成に尽力した日野霊瑞が第63世住職として大光院に奉職し、後に増上寺住職や知恩院門跡へと昇進しました。
呑龍上人は、当時多くの子どもが間引かれて殺されていたことを嘆き、これらの子どもを弟子として引き取り、育てました。そのため、後世の人々から「子育て呑龍」として慕われるようになりました。群馬県の「上毛かるた」では、「お」の札に「太田金山 子育て呑龍」として紹介されています。また、太田市の市歌にも「すこやかな幼子の 命見守る呑龍さま」という歌詞が含まれています。
大光院の正面にある大手門は、徳川家康が大坂城を落城させたその日に落成したため、「吉祥門」と名づけられたと言われています。
慶長17年(1612年)の春、幕府は大光院の建設に際して各工事係を定め、全国から銘木や良材を選び、名工を動員しました。基礎工事は同年から始まり、翌年の慶長18年(1613年)春に竣工しました。その後、大正年間に第66世住職であった千野學誠が老朽化を憂い、創建以来の伽藍の大改修工事を行いました。
大光院の本堂は、京間造の御霊屋造で、東西13間、南北11間半の入母屋造りです。本堂の中央には阿弥陀三尊像が安置されており、阿弥陀如来立像は安阿弥の作と伝えられています。また、観音菩薩像と勢至菩薩像は運慶の作とされています。右側には徳川家康の位牌、左側には新田義重の位牌が安置されており、堂内には新田義重、徳川家康、徳川秀忠の尊像や、徳川歴代将軍の位牌が祀られています。
元和8年(1622年)、呑龍上人は民衆の要望に応じ、自身の像を制作し開眼しました。この像が現在の開山堂の本尊である呑龍上人の尊像です。呑龍の没後、この像を祀るために開山堂が建立されました。大正年間には、当時の貫主であった千野學誠が開山堂の建て替えを発願し、昭和9年(1934年)に桃山風建築の堂宇として完成を見ました。この開山堂は、日本初の大型鉄筋コンクリート仏閣建築物として貴重な遺構です。
大方丈は、京間造で南北10間、東西6間の南向きに建てられています。本堂の右側にあり、少し下がった場所に位置しているのは、将軍が徳川家の先祖を祀る本堂と同じ高さに立つことが無礼であると考えられたためだと言われています。
小方丈は京間造で北向きに4間、東西に9間の建物です。茶間(上御供所)も京間造で南北6間、東西3間の東向きです。東角屋は関東十八檀林時代の学寮であり、庫裡、土蔵、穀廩、雑庫、浴室なども境内に存在します。
大光院の吉祥門は、太田市指定の有形文化財に指定されています。
大光院では、以下のような年間行事が行われています。
大光院へのアクセスは以下の通りです。
大光院の周囲には、1932年に植樹された桜並木が美しい八瀬川や、昭和初期に建設された東山球場、かつて存在した動物園(大正時代)、そして1938年に開館した太古庵などの名所があります。これらは谷崎潤一郎の文学的世界観を形成しています。